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『模様は使えない』の違和感の正体

 

「なんか気持ちが悪い」

淡水エビの情報を読んでいて、
「模様は使えない・参考にならない」という部分に対して、常々持っていた感覚でした。
この部分には、いつも違和感を感じていました。「なんか変」なのです。
他の生き物の情報の中には無いもので、ここだけが異質。
不合理で異物感が高いのです。
これに関しては、言葉の意味の誤解から生じた「因習」であることは、ほぼ間違いないと思います。
それについては、こちら⇒【淡水エビの因習】にまとめてあります。
これは個人的には決着していて、特に掘り下げる気はしません。終了です。
しかし、その「なんか」とは何だったのか。
最初に「異質」と感じた理由は何だったのか。
なんとなく、そのあたりが分かりました。

毎度の話で恐縮ですが、淡水エビの「模様情報」は不当なほどの軽視を受け続けています。
その一方で、模様の特徴さえ掴んでいれば素人でも分かような、呆れる低水準の種類間違い情報が多く見られます。
生きたエビに関しては、ほとんどの個体で模様で簡単明瞭に種類を判別できるのですが、
極めて軽率に、「不可能・酷似・困難」として、見た目の色柄情報はバッサリ斬り捨てられています。
「模様は無用」、「額角のみが神様」となり、淡水エビの見分けは不可能と困難の世界にされています。(自虐の域)
実物のエビから得られる生きた情報よりも、頭胸甲の外周だけの載った参考文献等にしがみ付いた盲目的な反復だらけです。
模様が有るのか無いのか、模様が使えるのか使えないのか、
これらを再確認する習慣がなく、情報発信当事者自らの判断に一切照らしていないようです。
不可能や不便、そして誤情報の多発に「右ならえ右」が長い間続いている様に思えます。
このあたりの異常なほどの合理性の無さは、実物からの遠さから考えても、とても受け入れられるレベルではありませんでした。
現実として、模様は非常に有効に使えますし、逆に、使わない例では見分けの失敗だらけです。
あまりにも不可思議な事柄でしたが、真実としても、「使えない」という言葉の意味を誤解し続けているだけのようです。
ホルマリン固定の白化死骸に軸を置く分類学からの誤まった派生と考えるのが正しそうです。
生きたエビにまで適用すると、有効な情報を悉く捨て去ることになるのですが、
それに気がつかずに暴走しているのです。

 

自然現象に背を向けているのに「自然科学?」

生きたエビの模様は自然現象です。
現実の自然にある事実です。
その自然現象を忌み嫌って、背を向けているのに、まるで「科学」かのように振舞っている。
中身は「不可能・困難・使えない・参考にならない」という否定とマイナス思考だけ。
そこには自然に対する探求心が微塵も感じられません。
『模様は使えない』には科学の匂いがしないのです。

「難しいから、やーめた」
「似ているから、あきら〜めた」
これらが自然科学から出て来る言葉とは思えません。
自然現象の中には解明や整理が困難な物はあると思いますが、
それを克服して来ているから今があるわけで、
一縷の望みがあれば、そこから地道に解き明かすような世界に思えます。
小さなヒントから大発見をして行くような、不可能を可能にするような、
そんな感じの世界に思っているのですが、
この「エビの模様」については、そういった匂いが全く感じられません。
感じられないどころか、有効な自然の事実を「見るな・使うな」ですから、ふざけた話です。
建設的な方向性を欠いた、負の方向とばかり仲良しです。

これが本当に科学であるならば、実際に使えない事例が存在する可能性がある事になり、
これはよく注意していなければ見分けを誤まる可能性がある事になります。
しかし、科学ではなく、誤解から生じた「ただの因習」であるならば、全く考慮に入れる必要がありません。
考慮に入れる必要がないどころか、積極的に消し去る姿勢が妥当になります。
因習がエビの知識を深める事に寄与する事は微塵もないと思います。

あきらめ、放棄、御手上げ。
因習によって、そんな否定的な鼻くそ扱いをされて来たエビの模様ですが、
実際に使ってみると、よく言われている「ヌマエビとヌカエビは亜種で見分けは困難」が、簡単に見分けられてしまったり、
取り違えが通常であるミゾレヌマエビとヌマエビ南部群が取り違えようのない模様の二種類である事が解かったり、
地味の二強のようなヌカエビとシナヌマエビ類(ミナミヌマエビ含む)も、模様が描く地図が全然違う事が解かります。
スジエビと混同され易いテナガエビ科3種の若エビも、模様だけで見分け終了です。
特に、ヌマエビ大卵型と呼ばれていた個体群は、
DNAを見ない限り、ヌマエビ小卵型と額角などの形態面では区別が付かないはずです。
どちらも頭の後ろにまで棘が並ぶエビです。(額角上に眼窟を越えて後方まで歯が並ぶか並ばないかでは同種を別種にしてしまう)
しかし、ヌマエビ大卵型は、おそらく、模様を見ればヌカエビそのものであると思います。
北部−中部群所属なのか南部群所属なのかは、額角では分からないわけですから、
額角以外ならDNAを分析するしかないはずです。
分析機器を持たず、比較の仕方も解からない一般人には「はあ、そうですか」と、ただ信じるだけしかありません。
信じたところで、現物のエビの見分けは出来ない事になります。
しかし、模様を見て判断してしまえば、DNAの比較など必要ないのではないかと思います。
ヌマエビ大卵型でしかない模様のエビというものを見たことがありません。
ヌマエビ大卵型に対して「あれはヌカエビです」とハッキリ言い切られている文献も見たことがあります。
そもそも、模様を少しでも参考にしていれば、最初からヌマエビ大卵型は作られずに済み、
ヌカエビとヌマエビは亜種だと説かれずに済み、ひいては南部群が“ミゾレヌマエビ”と呼ばれずに済み、
休耕田で養殖されるヌカエビが“ヌマエビ”と呼ばれずに済んだのではないかと思います。
この例だと、DNAを比較するのと同等の精度を持った種類分けが、エビを殺さずエビに触れずに「見るだけ」で出来る事になります。
額角では見分けられないものが、模様では簡単なはずです。
一般にとって、外見では見えないDNAに代わる物、それが模様ではないかと思うのです。
因習は、まるで、模様を見ると混乱に陥り、種類を間違えてしまうかのような脅しに近い雰囲気を広めていますが、
全く正反対のとんでもない話で、「模様を見ないから、種類を間違えている」のは明らかです。
どちらが科学的かと問われれば、模様を見るほうが明らかに科学的だと思います。
淡水エビの世界を混乱させている原因こそが模様を見ない事にあると思うのです。
本州産のわずか10種類程度の淡水エビを混沌の中に落としている張本人が、
「模様を見ない因習」であると考えても良いのではないか。
種類の取り違えの多さと必要のない混乱に覆われている淡水エビの世界を見ると、つくづくそう思います。

もっとも、生きたエビにも「模様が使えない」としている情報は、
それこそ、生きたエビの肉眼的な見分けにはほとんど使えないですし、
エビの小さな全身写真になると途端に種類の取り違えが増えます。
生きたエビから得られる情報のほとんどを捨てて居るわけですから、精度が低いのは当然ですし、
種類間違いを自ら気付きませんから、あぶなくて参考に出来ません。
それら因習に支配されたような情報は、「模様を軽視しているかどうか」を見ると容易に区別が付きます。
「エビの見分け方の見分け方」として、模様の扱われ方を見るのはとても有効です。
因習は根拠が無いですから、足腰が弱いです。
弱いどころか、煙やモヤのような物ですから、
思わず吹き出してしまうような息で簡単に吹き飛んでしまいます。
誤解を起源にした程度の因習が、科学には成れません。
現在まで、科学かのような顔をして、さも価値があるかのように一緒に混ざって入り込んでいるのがおかしいのです。
普通に考えて、自然科学の中に居場所は無いと思います。

 

因習を許す隙間 火のない所に“けむり”は立たない

それにしても、とても科学とは思えない因習が、さも自然科学の王道かのような顔をして、
諸所のエビの情報の中に深く食い込んでいるのは恐ろしい事です。
自然科学的な情報に当然載るものとしての扱いで、一般の知識に入り込んでいるのを普通に感じます。
後ろ向きで、何一つ向上するような手法を与えておらず、
見分けを諦める事と、種類の識別を間違える事という、マイナスだけを与えています。
それなのに、堂々と偉そうな顔で胸を張って載っている。
因習の元は「言葉の意味の誤解」ですから、因習自体には全く力はないのですが、
情報の出所に権威や信頼があると途端に強くなります。
科学的な検証や根拠があるかのような情報になりすまします。(博物館監修の誤情報がザラにあります)
このマイナスの影響は大きく、模様を見ない事のほうが常識になっていて、詳しい方もほとんど見ていない印象が強いです。
科学的な思考の方向性とは相反するのではないかと思うのですが、
違和感を感じられる機会がなかったのか、かなり広く浸透してしまっているような感じを受けます。
主に以下のような要因が互いに判断を鈍らせ、ポッカリ開いた隙間に入り込まれてしまったのではないかと思います。

1.エビが透明度の高い生き物である事
「透明だから」⇒「模様は使えない」と繋がり易い。誤解される特質を持っている生き物です。
透明でも各種類に特徴的な模様があるのがエビですが、
透明度が高いという部分で、まともに見られる機会を失わせた部分があると思います。
これが下地に存在するのは間違いないと思います。

2.真の分類学の部分で、模様の消失した標本と、模様の記述のない論文を基準としている事
実際、原記載論文等に生時のエビの姿を撮影した写真が1枚も納められていないのは事実のようです。
つまり、同定の元へ辿ってみても、指標になる模様情報が全く無い事になると思います。
あるのは、真っ白に褪色した標本瓶の中のエビの死骸。そして、模様の特徴を全く書いていない論文。
これでは因習がいつまでも生き続けるスキは永久に存在する事になると思います。
最新のDNAを解析したような情報と共に、特徴的な模様がクッキリと写っている写真も一緒に再記載していただけると、
元が絶たれますから、因習の出番はほぼ無くなると思います。
本来、見た目の姿や色柄の情報は、最も最初にあるべき情報だと個人的には思います。
生物を語る上で、その生きた姿や色彩や模様の情報が無いというのは、ちょっと不思議。
(エビの死骸学・外骨格学だと割り切って判断して、生態学方面から新たに指標を作っても良いのではないかとも思います)

例えば、本などでエビの記事が書かれる場合に、各種類の模様の特徴などを本来なら載せたいとしても、
元に情報がない訳ですから、書きようがありません。
書きようが無くて余った余白には、模様は使えないようだし、参考にもしていないそうだから、
「エビの種類の識別に模様は使えない・参考にならない」と書くしかなくなってしまうのではないかとも思えます。
各種類の成長過程における模様の変化などが研究されていれば参考になるのでしょうけれども、
やはり、そういった感じの物が無いのでしょう。
本来なら、「標本や論文には模様情報が無いから、分類研究の世界では色柄は使えない」とするべきですが、
図鑑や雑誌、Web情報では、生きたエビのフルカラーの写真と共に「模様は使えない」と載ってしまいます。
生きたエビと標本のエビは分けなければ駄目です。世界が違います。
しかし、生きたエビにも模様は使えないという事に成ってしまっています。
実際にも生きたエビを模様で識別するという正式な方法がないわけですから、
額角が見えないような小さな写真は「たぶん、きっと」といった低い水準で、種名に当てはめられます。
そして、最終的に、一般読者に渡る図鑑などには、、
模様は使えない・参考にならないという文章と共に、種類を取り違えた写真が掲載される。
これが延々と繰り返されるのだと思います。

一般初心者にとっては、種類が間違っている情報であっても、
その模様や色彩が重要です。
生きたエビを飼っているわけですから、その自分のエビの色彩や模様を図鑑と比べます。
そして間違えた種名を憶えるわけです。
必要とされる根本の場所に、その必要とされている情報が無いという部分が、やはり大きい気がします。
元の部分に本来有るべきものが無ければ、末端の情報が狂うのは当たり前と思えます。
要求はあるわけです。
生きたエビには種類ごとにどんな模様が有るのかという情報は求められているとは思うのですが、
元となる分類の世界では「模様を使っていない」のです。
情報を求められているのに、応える情報がない。
必要に迫られて、有志(?)が独自に種類を判断して、てきとうに作られた情報が世に広まる事になっている感じです。
求められる情報と分類研究の部分の情報との間にズレが大きいのです。
このズレに入ってしまったのが「因習」だと思われます。

標本瓶の中でアルコール浸けになっているホルマリン固定の標本。
これの模様が消失して真っ白になってしまい、同定の際に「模様が使えない」のは、
ある種「自然現象」ですから、これにはべつに違和感はありません。
白化したエビの標本はどれも同じように見えますから、識別は「酷似していて困難」でしょう。
論文にも書かれていないので模様や色彩は使えませんから、額角や棘などを使って種類を識別するのも仕方がない話です。
このあたりは、「科学」の範疇ではないかと思います。
足りない部分を感じる「妙」な世界には思いますが、科学的な違和感はありません。
ですから、ここに生前の各種のエビの写真を加えれば、それで終了だと思います。
足りないなあと思う部分、思われる部分を足せば良いだけ。
指標としての写真を撮った個体のDNAまで比べて、その遺伝子比較情報も同時に保管すれば、それで完璧と思います。
色柄の情報を求められた場合に、きっちり正確に答えられる事になります。
これで、因習が暗躍する隙も無くなりますし、一般初心者にも正しい知識がもたらされます。
(個人的には本当に「ただそれだけ」に思えます。
生きている時の模様情報が、分類、生態、その他の研究に、今も昔も、そして今後も一切必要ないというのは、
これもこれで「気持ちが悪い」です)

 

2009/07/24


参照⇒【淡水エビの因習
エビの見分けの世界に古くからあるという「因習メガネ」。
この因習メガネをかけると、あら不思議。
生きているエビから色彩と模様が消えて見え、
種類が全く分からなくなるそうです。
エビの甲羅の外周しか見えなくなり、
顕微鏡で額角や棘を拡大して調べなければ全く分からなくなってしまうそうです。
そして、口々に「困難」「酷似」「不可能」とつぶやき続ける事になるんだそうです。
人間には色の違いや模様の違いを判断できる能力が備わっています。
余計なフィルターのついたメガネをわざわざかけて生きたエビを見る必要は全くありません。
フィルターを通さないエビが最も綺麗で最も情報量が多いのは言うまでもないです。
生きたエビは、まっさらな目で見ましょう。

「因習メガネ」使用前⇒使用後。
生きたエビにまで「模様は使えない・参考にならない」と説く、呆れた因習。
簡易同定の世界に蔓延る誤解起源の訳の解からない習慣です。(自虐を自覚できていない)
真の分類学と一般の間に居座り、エビを一般から遠ざけ、
種類の見分けを諦めさせ、種類間違いを増やしている大変に厄介な存在です。
生きたエビは模様も見られるから種類間違いが大幅に減るのです。
模様や色彩は敵視するものではなく、額角や棘とプラスすることによってより強力になるのです。
(因習は、「自然現象を敵視する」という最も初歩的な愚行に気がついていないのだから御手上げです)


「因習メガネ」使用前⇒使用後。
額角など全く見る必要のない雌の大型個体も、見当すら付かなくなります。
「生きたエビにも模様は使えない」とした情報はほとんど福笑いの世界ですから、種類の取り違えが多いのです。
模様が使えないのは、模様の記述のない原記載論文および標本瓶で白化した正基準標本との比較の場合のみ。
生きたエビまでわざわざ白化させる事が、いかに愚かな行為かはきちんと知っておかなくてはなりません。

 

参照⇒【透明なエビ達
透明度が高い生き物ですが、独特の模様が完全に無い個体というのは発見しがたいです。
エビの模様を全く見ずに、口先だけで「模様は使えない」と説いている因習とは別に、
実際に本当に模様が使えない個体が居たらコレクションしたい所ですが、
どうしても種類の片鱗が見えてしまう個体ばかり。
完全透明、完全無模様なエビに出会うのはたいへんだと思います(稚エビ子エビでなく)。
生きているエビで、真に模様が使えなくて参考にならない個体が居たら貴重な気がします。
(ミゾレヌマエビに発見できる可能性は高いですが、ミゾレはそもそもそんなエビなので発見しても面白くない)

 


2009/07/26 更新
2010/11/30 修正


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